意味産出の現場としてのBBSやブログ
2007年2月7日
高島康司
1)生産者と消費者の相互互換性
インターネットの普及にともない、旧来から存在していた生産者と消費者の区別が喪失し、多くの個人が同時に生産者でもあり消費者でもある社会が出現しつつある。わたしたちはこの社会をやっと実感したばかりだが、生産者と消費者の相互変換が社会にもたらす影響を目にして驚いている。
活況を呈しているオークションでは、まさに個人が商品を売り買いし利益を上げているし、昨年の9/11選挙では小泉の地滑り的勝利にブログが果たした役割は巨大だ。
ここでは個人は、生産者が提示する製品を自分の好みで選ぶだけの存在ではないし、また政党がしかける選挙キャンペーンをただ受け入れるだけの受動的な存在でもない。ネット社会では、個人自らが商品の売り手になることができるし、自分の支持する候補者の選挙キャンペーンを勝手に展開することも可能だ。生産者と消費者との間にはもはや厳密な分離は存在しない。個人は、一方の極から反対の極へと簡単に飛び越えることができる。
飛び越えというこの特徴はネット社会全体を覆う基本的な性質であるといえる。小説家とファン、新聞と読み手、放送と視聴者、アートの製作者と鑑賞者など飛び越えと相互互換の波は分離が確定していたかにみえた既存のすべての領域に及ぶ。
この結果は何なのか。それは個人の意味のあらゆる産出活動がすぐにネットという巨大な公共空間にもたらされ、それがきっかけとなって新たな産出活動がすぐさま開始されるということだ。
自分の持ち物を買ったオンラインオークションの購入者は、単なる購入者はではない。それは自分の持ち物を売る販売者でもある。オークションは、すべての販売者が購買者となることで、持ち物という共通の意味を交換する巨大なネットワークを構成する。
また、Google VideoやYouTubeなどの自由にビデオが配信できるサイトでも同じことが起こる。だれかが配信したビデオがおもしろければそれにコメントがつき、さらにそれによって刺激されて製作された新たなビデオがアップされるだろう。
オーマイニュースやJAMJAMなどの同じだ。ここではレポートを書くことに特化したプロの記者は存在しない記者となりはもともとメディアの読者である人たちであり、彼らは市民記者といわれる。読者が自ら記者となり記事を配信するのだ。ここでも同じ原則が当てはまる。一人の市民記者の書いた記事には、コメントがついたり他の読者の問題意識を刺激することで、記事の執筆やコメントの連鎖が開始される。
一言で言うとこれは、意味の発信が、プロとしての立場によって発信者と受信者が分離したモノローグ型による意味産出から、発信者と受信者の位置がたえず入れ替わりその中で意味が産出されるような対話型へと急速に移動しつつあることを示している。
既存のモノローグ型でも確かに発信者と受信者との対話は存在し得た。ただし両者の間にコミュニケーションが成立し、受信者の意向が発信者の産出する意味に反映されるまでにはかなりの時間がかかった。両者がリアルタイムで協衝し意味が産出されるなどということはありえなかった。このタイムラグが、受信者には決定的に挑戦されだめだしされることはないという、意味の製作者の立場の超越性を保証した。
このような特徴は、ネット社会であればすべての領域見られることだ。90年代から存在しているメーリングリストやBBS、それチャットなどはいうに及ばない。拡大するインターネットは既存の社会領域が提供していたサービスのほとんどをネットワークに取り込み、ネットを介して提供するようになると考えられている。実際にこの方向にわれわれの社会は進化しているわけだが、もしそうだとすると、対話モデルによる協衝的な意味産出の方法は社会を覆い、社会全体がコントロールできない意味の増殖体と化すことだろう。
2)BBSやブログとは
社会のこのような特徴をもっとも先鋭的に表現しているのがBBSやブログである。
BBSやブログは誰でも始めることができる。無料ブログはたくさんあるし、有料のものでも月数百円しかかからない。
ここまで手軽に始められるとなると、BBSやブログは、日々の出来事や雑感を自由に書くことができるオンラインの便利なメモや日記になる。特にブログはそのようなものだし、もともとの名称であるウェッブログとはウェッブ上の日記のことである。
このようないわば私的な用途で開発されたものが対話型の自己増殖社会のシンボルとなり得るのも、アクセスした不特定多数の人間がコメントを自由につけられるようになっているからだ。
もしテーマが興味を引くものであれば、それには必然的に多くのコメントがつく。コメントがまた興味を引くものであれば、さらにそれにコメントがつく。コメントは、新たな情報の紹介や個人の意見などだが、コメントがつけばつくほどBBSやブログのテーマは勝手にあらゆる方向に発展する。
それはいわば大きな会議室で参加者全員が活発に議論しながら内容が次第に具体化してゆく公開討論のようなものだ。
またはこれを市場のメタファーで捉えることも可能だろう。BBSやブログとは、意見や情報が競りにかけられる公開の市場のようなものだといってもよい。
3)勝手に増殖するBBSやブログ
当然だが、BBSやブログの規制のない市場化は過当競争を促進させる。BBSやブログはより多くのアクセスを得ようと互いに熾烈な競争を展開し、それにしたがい一気に増殖する。
一般の経済では過当競争をと企業数の増大は、利潤率の比較的に高い新しい産業分野が開拓された時期に限定されるものだ。高い利潤率が期待される限り、その分野は多くの新規参入企業を引き付ける。だが、多くの企業による競争の激化は徹底した製品価格の低下を要求する。そして増大する価格低下の圧力に対処できる唯一の方法は大規模生産と生産設備の技術的な高度化によるコスト削減だけだ。このため、豊富な資金力を持ち巨大な設備投資ができる大企業のみが激しい競争に生き残り市場を制覇することができる。どのような分野でも生き残る大企業は複数存在する。なので、市場はこれらの企業がシェアを分割する安定した競争の状態に移行する。ウィンドウズ、マックOSそしてリナックスの三つが市場のシェアを分割しているコンピュータOSの分野などはその典型であろう。競争の激化は企業の淘汰を促進する。
ではBBSやブログも同じような意味で市場であるとするなら、一般の経済と同じ法則が当てはまるのだろうか。いや、おそらく答えはノーだ。BBSやブログは、競争が激しければ激しいほど数を増し増殖する傾向のほうが強くなると考えた方が妥当だ。
そうなる理由は簡単だ。一般の経済では産業分野に新規に参入するときはそれなりの額の投下資本が必要になる。それに対し、BBSやブログの場合は開設にかかる費用は限りなくゼロに近いか、料金が発生したとしても月数百円程度で済んでしまうからだ。さらにグーグルのアドセンスのようなウェッブ広告を使うと、逆に利益が発生し金銭が支払われる場合もある。
開設がこのように手軽にできてしまうのがブログやBBSの特徴だ。そのため、ある特定のテーマを扱うBBSやブログが多くの人の関心を集めるなら、同じようなテーマを扱うBBSやブログが一気に増殖する。個人の日常の記録媒体としての特徴も合わせ持つブログよりも、それぞれ異なったテーマを扱うようにできているBBSのほうがこうした無限増殖という特徴は全面に出やすいはずだ。
4)これが社会に何をもたらすか
BBSやブログのこの特徴は、われわれの社会に何をもたらすのだろうか。それを改めて問わなければならない。
BBSやブログでは、特定のテーマに関する多くのメッセージが交換される。それらには書き手の気持ちを語った主観的なものから、客観的な事例を根拠にした分析的なものまでさまざまある。ただ、いくどとなくメッセージの交換が繰り返されるにしたがい、もっとも説得力がある意見や考えが主流となり多くの人たちの注目を集めるようになることはどのBBSやブログでも状況は同じであろう。
ところで説得力のある意見となんだろうか。それは、集まってきた人間達の間でそのテーマに対する主流となる認識や価値観のことだといえる。
人間が意識して行う多くの行動の背後には、行動を可能にさせているものごとの解釈の枠組みが存在している。そうした枠組みは、1)目の前にある世界や対象がどういうものか解釈し、2)それに特定の意味を与え、3)それを変化し操作するためにはどのような行動を取るべきか規定する。
この意味でいえば、BBSやブログで発生する説得力のある意見や考えは、なんらかの解釈の枠組みを提示しているといえるだろう。
当然、BBSやブログで発信されるものすべてが解釈の枠組みを提示しているかといえばそうではないことは明らかだ。多くの場合、あるテーマに関する意見は感情的な反応である。それが惹起する反応も同意や不同意を伴う感情の表出だろう。ましてやBBSやブログでは匿名が基本原則である。普通の社会生活のように他者に対して気を使う必要性はない。このため、表出される感情も抑制のない激しいものになる。その結果、参加者の感情のあからさまなぶつかり合いから「荒れる」BBSもあれば、一方的な攻撃に合い「炎上」するブログもある。むしろこうした感情的、感覚的な反応の方が一般的だ。これらが解釈の枠組みを提示しているとは考えにくい。
確かにこれが実態だ。だが、なぜもともと感情的な反応が惹起されたのかちょっとと考えると、やはり投稿されるメッセージは、ある事柄に関する、特定の価値判断を内包した解釈がもとになっていることが分かる。
そもそも、どうしてBBSやブログが、「荒れ」たり「炎上」したり、また反対に異常な盛り上がりをみせるのかといえば、管理人や投稿者の最初のメッセージが特定の価値観や解釈を含んだものの見方を最初から示しているからだ。最初から誰でも同意できる、あまりに常識的な解釈や意見が表明されるだけなら、投稿されるメッセージの数はそう多くはないはずだ。メッセージは、多くの人達の同情や反発の感情を強く刺激するからこそ、BBSは書き込みで溢れブログにはコメントが集中するようになる。したがって、荒れるにせよ盛り上がるにせよ、アクセス数の多いBBSやブログははっきりした特徴をもつ解釈の枠組みを提示していると考えてもあながち間違いではない。
たとえばスピリチュアル系のサイトもそうしたものの一つだ。スピ系はネットでももっともアクセス数の多く、またその種類も既存の宗教の教義に基盤をおくものから、超常的な体験や霊能力を全面に出すものまでさまざまだ。ただ、どのサイトも「神」「天使」「守護霊」「悪霊」などの超感覚的な超越的存在が実在することを前提に、個人が人生で体験する幸や不幸に意味を与え、それらに日常の事実の因果関係とはまったく異なる解釈を与えることでは多くの特徴を共有する。
また、前世や生まれ変わりを当たり前のこととし、個人の存在が死後も延々と継続すると考えるのもこうしたサイトの特徴の一つである。人はなんらかの「学び」のテーマを持ってこの世に生を受けると考える。この側面から、人生の出来事や経験を解釈するのもこうしたサイトの重要な特徴だ。
これらの枠組から人の人生を解釈すると、日常的な自己とはまったく異なった自己の姿が現れる。それは、過去さまざまな時代で得てきた体験をひきづり、それに直接影響を受けることで幸や不幸を体験している自己のイメージだ。この自己は、名前を持ち、普通の喜びや悲しみが交差する日常の地平で生きている自己ではない。いまの自分のはるか深層に存在し、これまでの生まれ変わりの記憶をすべて保持しているなにものかだ。
人はこのような自己の解釈と出会うことでなんらかの解放感を味合うことは容易に想像できよう。「そうか!私がこのような苦しい経験をしなければならなかったのは前世であの生を送ったからだ」という了解は、一時的にしろその人に日常の悩みから距離をとることを可能にし、生の意味にいままでとは異った枠組の解釈を与えてくれる。程度にもよるが、人がこうした解釈を受け入れる度合いが深いほど、日常的な悩みからの解放感も強いものになる。
これと同じようなことは社会・国際情勢の分析をテーマにしたサイトにもいえる。
当然、これらのサイトは、世界で起こる政治的経済的な変動や事件を解釈することを目的にしている。どのサイトも主流のメディアとは異る視点と見方を提示することがポイントだ。その意味ではどのサイトもユニークである。
こうしたサイトが独自な解釈を展開できるのも、スピリチュアル系のサイトと同じようなメカニズムが存在するからだ。
どのサイトも、社会・国際情勢に関するなんらかの価値判断やものの見方の上に立脚した解釈の枠組みを提起している。小泉構造改革のような出来事も、異った枠組みを適用すれば「既得権益で腐敗したシステムの改革と刷新」という肯定的なイメージから、「国富を米国に売り渡す売国的な政策」というもっとも否定的なイメージまで変化する。これは当たり前だ。
5)対話の生産性と認識の枠組み産出の高速化
ところで、BBSやブログの特殊性はそれらのサイトが独自な価値観やものごとの見方を展開していることそのものにあるわけではない。最初に提起される価値観や見方は書き込みによる対話を誘発するためのきっかけにしかすぎない。出発点にある考えやものの見方が、書き込みというメッセージ交換のプロセスを通して思ってもみない方向に発展生成することが新しいのだ。
要するにBBSやブログは対話のプロセスだということなのだ。
この意味では、ソシュールなどの構造主義の言語学者が名付けた「ラング」と「パロール」の対立がそのまま当てはまると考えてよい。
すでに周知のことだが、言語の意味や文法の規則のシステムである「ラング」に対し、「パロール」は実際に会話の過程で使用される言語のことを指す。「ラング」抽象的な言語規則あるのに比べ「パロール」は規則が言語活動を通して実体化した具体的なものである。その意味で両者は相互依存関係にある。「ラング」が存在しなければ「パロール」も成り立たず、また「パロール」の具体的な活動がない限り抽象的な「ラング」の存在も顕在化することはない。
しかし、「パロール」のユニークな存在が発揮されるのはこの相互依存関係ではない。「パロール」はつかみどころのないものと考えられた。それは、「パロール」の活動では新しい意味の産出が絶えず行われ、「ラング」の固定化された規則が乗り越えられ変化させられるからだ。「パロール」は「ラング」がないと意味を構築できない。「パロール」の言語活動が成立する根拠は「ラング」の規則にあるからだ。にもかかわらず、実際に「ラング」の規則が「パロール」の言語活動を通して発現すると、それが行われる具体的な場面や状況に合った意味に作りかえられ、これまでの言語規則が簡単に変更される。つまり、一言でいえば、新たな意味が言語の実体的な活動を通して産出されてしまう必然性を「パロール」は表している。
われわれがここで問題にしているBBSやブログは、ネット上で行われる巨大な無数の「パロール」のプロセスであるということだ。それは、まさに「パロール」と同じように、すでに社会的に共有されている規則の変更やそれの更新、また新たな産出を行う。
その活動が産出するものは、新しい言語の意味や解釈に当然止まるものではない。スピ系や国際情勢分析サイトの例で見たように、社会的に広く共有されている解釈や認識の枠組み、そして世界観そのものが変更され加工される対象になる。
おそらくこれは多くの人間にとって驚異であるはずだ。先に述べたように、BBSやブログが勝手に無秩序の増殖を繰り返す。ということは、この増殖が進むにしたがい、枠組み産出のプロセスも異常に加速され、これまで存在しなかった認識の枠組みと、またそれに基づいた新たな行動形式や、さらにそれを基盤にした実際の行為が、想像もできないスピードで生まれてくるようになってしまったことを意味してはいないだろうか。一言でいえば考えられる限りのあらゆる認識の枠組みが過剰に存在する社会にわれわれは生きている。
この数年、自殺サイトで行われている“対話”を通して現出するにいたった「死」のこれまでにないとらえ方などは、まさにBBSやブログの産出プロセスが生み出した新しい意味であろう。
新しい見方からすれば、「死」はもはや一回限りの取り返しのつかない出来事ではない。「死」は間違いなく向こう側に存在する「死後の世界」に人間が行くために経過しなければならない通過点の一つにしか過ぎない。そして向こう側に行くと、またこの世へと簡単に生まれ変わってくることができるのである。「死後の世界」がどんなところであるのか、また向こう側に何があるのか、こうした問は、サイトで行われるメッセージの交換という対話のプロセスで確実に回答が見いだされる。
6)近代、現代、そして現在
少なくともインターネットの出現以前の社会では、「死」や「死語の世界」の問題は、それを扱う社会領域が専門的に対処する問題であったはずだ。この領域は複数存在するが、宗教はまさにそうした領域の一つである。
宗教の社会領域では「死後の世界」や「死」を体系的に解釈し、それらに積極的に意味を与えるさまざまな解釈の枠組みが存在していた。ただそうした枠組みを適用し実際にある「死」を解釈することを許されているのは聖職者などの資格を持った一部の人間であった。彼らは、@その領域の認識の枠組みを操作する権限があり、Aそれを用いて出来事の意味を解釈する権利があった。ただ、どのような意味が産出されるべきかには厳密な規則が存在しており、現代のBBSやブログに許されているような意味の自由な産出性は禁止されていた。「パロール」は出来る限り管理されなければならなかったのである。
思うに、近―現代社会の一番大きな特徴の一つは、この例のように、前近代の社会とは異なり、社会が経済、政治、宗教、教育などの社会領域へと分化していることだ。それぞれの社会領域では、その領域に特徴的な認識の枠組みとそれに基づく行動の形式が存在している。そしてそれを操作するためには、聖職者のように、その領域で認定された特定の資格を有することが絶対的な条件となる。法の領域では法律家が、経済では労働者や資本家が、そして報道ではジャーナリストが意味産出の主体である。要するにプロになることが枠組み操作の条件だ。
おそらくBBSやブログは、こうした近―現代社会の彼岸にあるものをはっきりと指し示している。それはいわば現在の社会とも呼べるものだ。
BBSやブログが勝手に高速で自己増殖し、社会のさまざまな領域でこれまで認可されていた認識の枠組みに手を加えて変更することは、各領域で権威を持って存在している「資格を有した主体」の権限を侵犯することになる。いままでプロのジャーナリストに許されていた「報道」の名で行われる意味産出行為は、現場に近いところにいる無数の素人やフリージャーナリストの集団の対話的な意味産出のプロセスによって簡単に書き換えられ、それが当初持っていた意味とは異なるものが産出されるようになった。これと同じことが宗教でも、経済でも、また政治でも行われている。80年代のバブル花盛りの頃にはプロの証券ディーラーや彼らの顧客である機関投資家のみが決定していた株式相場も、無数の個人投資家が参加するデイトレなどの影響力が非常に大きくなり、今までには見られない大幅な変動を経験するようになったことも各領域のプロの崩壊現象の一端としてみることができる。
このようなことが社会のあらゆる領域で起っているということは何を意味しているのだろうか?それは、どの領域でも「資格を持ったプロ」というこれまでの意味産出の主体が、自己増殖する対話型の意味産出のプロセスによって地盤沈下させられていることを指しているだけではない。さらに重要なことを意味している。もし近―現代社会がそれぞれ異なった領域に細かく機能分化し、それぞれの領域はそれに特徴的な認識の枠組みと行動の形式を持っているとするなら、「プロ」の崩壊や認識の枠組みの無限増殖という事態は、社会領域の分化そのものが否定されてしまい、いわば細胞膜が破れて内容物が流れ出すごとく、あらゆる領域のあらゆる言語や記号が、BBSやブログによる対話という坩堝になだれ込み、ここで意味が予想も出来ない方向に変更されてしまうかもしれないという途方もない可能性を示唆している。つまり、社会領域の機能分化そのものの否定という事態である。
当然、既存の近ー現代社会においても意味の自由な産出領域が存在していなかったわけではない。消費者が購入した商品を記号として使い、自らのアイデンティティーを記号の組み合わせの変更を通して自由に表現できる消費空間はその好例だ。インターネット出現以前ではあるが、80年代や90年代にもなると、旺盛な記号消費の勢いは伝統的な都市の空間的機能区分をも浸食し、あらゆる都市空間に商品記号を表示するためのステージを作ってしまった。突然と原宿を占拠した「タケノコ族」は、この時代の意味産出のあり方を象徴する出来事だった。この時代の類似した現象は数多くある。
しかし、80年代や90年代前半までの意味産出の空間はあくまで消費空間として設定され、機能分化した社会領域の外部に止まっていたことが大きな特徴である。やはり意味の「生産」と「消費」は分厚い壁で仕切られ、意味の産出を担うものは「資格を持つプロ」に限定されていた。「タケノコ族」の奇抜なファッションがどんなに流行ろうとも、そのファッションの商品としての販売は「プロ」が行っていた。ファッションが消費者によって企画され、そのまま個人のネットショッピングサイトを通して販売されたり、オークションサイトを媒介することで自分の持ち物がオそのまま商品になってしまう現代とは大きく異なる。「生産」と「消費」の相互浸透性は存在しないか、まだまだ限定的なものに止まっていた。
これはつまり、社会領域に特徴的な意味産出はその閉じられた領域内で行われていたことを指す。その限りでそれぞれの社会領域は、その機能的な独自性を保持し、分化することがまだかろうじてできていたといってよいだろう。
それとは対照的に、現在のBBSやブログ的な対話形式が織りなす社会では、意味産出のプロセスは社会領域の内部深くまで浸透してしまっている。本来は厳重に管理され、領域別の厳格なルールが支配しているはずの意味産出のプリロセスは、専門の壁を飛び越え、不特定の膨大な数の個人と対話する場へ引き出されてしまったのだ。そこでは、これまでの「プロ」や「アマ」が区別なく入り乱れる無組織的な対話が進行する。ここではもはや「内部」も「外部」も存在しない。どの証券を買うべきかアドバイスする非常に有能な15歳の少年、離婚専門に法的なアドバイスを提供する18歳の少年、優れた国際情勢の分析を披露する60代の退職者などの出現で「プロ」はすでに過去のものとなった。その結果、そこで産出される意味も、厳密なコードが支配し、すでに結果がどうあるべきか先取りされている、かつての安定し権威付けさられた産出物ではなく、どの方向に発展するのかまったく見当もつかないびっくり箱的なものへと激変した。社会領域の機能分化の根拠が、その領域に特徴的な意味産出のプロセスであるとするなら、これが外の対話の場に向けて開かれ、それによる浸食を受けることは、まさに領域の分化とその自立性の根拠が解体されたと理解できるのだ。
現代のわれわれの社会は、このような過程で新しく産出された認識の枠組みがすでに充満してしまっているのが現状だ。これを既存の社会領域に押し込んで管理し、元に戻そうとしても無駄なことだろう。どんなに学校が学生らしさを記号的に作ろうとしても、女子高生はBBSやブログ、そして携帯電話の無限増殖する対話の場から得る情報で、自らの姿を勝手に激変させてゆくだろうし、これまで株の「プロ」にしか近づけなかった情報も、対話の場へと公開されることで、いままでには考えられなかったような株価の大きな変動を引き起こしてしまう。これらのことはもはや管理することは不可能だ。
7)多様な時間から単一の時間へ
ところで、自立した機能に分化している近―現代社会では、それぞれの領域に独自な変化のリズムが存在した。経済には経済の、法には法の、そして教育には教育に特徴的な変化のサイクルが存在するとされている。
領域が相対的に自立しており、領域に特徴的な枠組み(構造)があるならば、それぞれの領域に独自な歴史と変化のリズムがあると考えられても当然だ。社会は、領域が分化しているように多くの部分史があり、単一の歴史は存在しないと考えるのが現代の認識である。
ところが、上に述べたように、領域の機能分化が否定されるようになり、意味の産出が無数の対話の場が担うようになると状況はまったく異なってくる。意味産出のサイクルは、これまでの領域別のルールではなく、対話の現場の共通の時間枠にしたがって変化するようになる。
これがどういうことなのかは、論を改めて詳述しよう。
第一部終わり